『天国の門』(1980年)

原題:Heaven's Gate

監督・脚本:マイケル・チミノ 撮影監督:ヴィルモス・ジグモンド

出演:クリス・クリストファーソンクリストファー・ウォーケンイザベル・ユペールジョン・ハートサム・ウォーターストン

莫大な制作費をかけたにもかかわらず映画がまったくヒットせず上映打ち切りで、映画会社を倒産させたことで有名なチミノの問題作。

この映画についての言説で使われる、「問題作」という言葉がまさしく問題だ。この呼称ゆえに、実体以上に過大評価されていることこそが、この映画の「問題」だろう。

もちろん、優れたところはいくつかある。まず、多くの批評でも称賛される、チミノの絵作りの美しさ。画面構成がとても絵画的だ。最初の卒業式の場面、移民たちのダンスシーン、移民たちの過酷な農作業の様子(牛の代わりに人間が農具を引く)など、それぞれが絵画的な画面構成を持っていて、重厚な「本物感」がある。『ディア・ハンター』と同じく、小物ひとつさえこだわっていることが伝わってくる。

しかし…またしても編集が冗長で、物語構成も破綻している。長すぎるシーンが多い一方で(途中何度も早送りしたい衝動にかられた。結局我慢したが)、登場人物や物語の展開についての説明が圧倒的に不足している。ご都合主義の展開もあいかわらず。この映画が当時評価されなかった理由のひとつに、「アメリカの恥部を描いたから」という点がしばしばあげられるが、それ以前に、映画としての完成度が低い、ということが致命的だったのではないだろうか。

ディア・ハンター』での(賞レースにおける)あまりにも大きな成功が、チミノを勘違いさせてしまったのかもしれない。

ウォーケンが演じた殺し屋ネイトは、この映画の中で唯一魅力的なキャラクターだ。あるいはウォーケンが演じたから魅力的になったのかもしれないが。一方、主人公のエイブリル(クリストファーソン)は、ほとんど人間的魅力が感じられなかったが、これは役のせいなのか、クリストファーソンの演技力のせいなのか不明だ。

クリストファーソンは、あまり表情演技をしない俳優なのだろうか。彼が何を思い、いまどんな感情に突き動かされているのか、ほとんど読めない。言動だけ見てると、結構嫌な奴に見える。牧場主VS移民の闘いが起こるだろうことを予見した彼は、最初は愛人の娼婦エラ(ユぺール)と逃げることしか考えていない。しかし実は遠く離れた都会に上流階級の妻がいて、エラに性愛を感じているものの、結婚する気はない(本当は気持ちが揺れ動いて葛藤してるのかもしれないが、それが見えない)。さらに、エラが「ここに残る」と表明すると、怒り狂って彼女の荷物を蹴とばし、「単なる娼婦」とか嫌味を言い、「ネイトと結婚する」と言うと嫉妬むき出しでまた荷物を蹴り飛ばす。あとで、エラが取り乱しながらネイトの死を知らせに来たときも、「そんなの覚悟のうえだろ」と非常に冷淡で、冷静な人物というより冷酷な人物に見えるのだ。問題は、このような人物に見えるのは、あらかじめそういう人物として描かれているためなのか、クリストファーソンの演技力のなさのせいでこちらが誤読しているのか(エラから熱愛されていて、移民たちからもやたら信頼されているという設定からすると、信望ある人格者である可能性は高いのだが)、はっきりしないところだ。

ウォーケンとユペールの演技は、細やかで感情移入できる。だから、この二人が共演するシーンはとても雰囲気ある素晴らしいものになっている。エラの部屋でのやりとりとウォーケンがウトウトする場面や、ウォーケンのあばら家での「壁紙」についてのやりとりと椅子を引いて待つ一連の場面などが、総じて退屈なこの映画を救っている。ウォーケンの繊細な表情による演技が素晴らしく、またユペールも無表情な中にもわずかな感情の動きを見せるのが上手く、要するにこの二人の演技のバランスがいいのだ。演技のレベルが合っている。一方、クリストファーソンとユペールの場面には、こういう豊かな情緒性が感じられない。

せっかくジョン・ハートという演技派が出演してるのに、彼がほとんど活かされていないのも勿体ない。役柄としても、物語においてもっと重要なポジションを果たしてもいいと思うのだが、結局単なるアル中で終わる。かと思うと、中心的人物ではない(どちらかといえば端役に近い)のに、やけに出番が多かったり、長くシーンを貰っている俳優もいる。そのせいでよけい冗長になっている。

一番問題なのは、チミノが何を言いたいのか、結局よくわからないことだ。移民という「搾取される者」「弱者」を、牧場主たちという「支配者」「強者」が抑圧したが、それに対し移民たち弱者は抵抗したのだ、という物語は、「反権力」というメッセージに容易に回収されるはずなのだが、その割には移民たちの描かれ方が、こちらが感情移入しづらい。『ディア・ハンター』のベトナム人ほどではないが、移民たちは概ね「群れ」として登場し、しばしば興奮しながら耳慣れない異国の言葉(字幕があるので一応意味はわかるが)を叫んだり、怒り狂っていたりする。泣き叫ぶ幼児なども出てきて、一応、観客が同情すべき対象は移民たちであるべきなのだが、なぜか親近感とか同情心が湧きにくい。もちろん牧場主側は、非情な有産階級として描写されているので、こちらも肩入れする気にはならない。つまり、観客にとってはどちらの側も「他人事」なのだ。

移民の中で唯一、人間味を感じさせるキャラクターであるエラとネイトは、移民たちから嫌われているはみ出し者だ。

クリストファーソンは、この映画以前のフィルモグラフィーからいってアメリカン・ニューシネマの代表的俳優の一人であり、だからこその起用だろう。しかし彼はこのころは落ち目になりかけており(アメリカン・ニューシネマ自体も最盛期は終了)、この映画でも、初老に差し掛かって既に戦う気力体力衰えた男として描かれている。となると、チミノは1970年代の若者たちの「反体制」「反権力」のイデオロギーの敗北かなんかを表現したかったのだろうか?

この映画が、アメリカン・ニューシネマを意識しているのは明らかだが、だからといってそれにオマージュを捧げてるのか、アンチなのか、よく分からない。

見どころ①何といってもネイト(ウォーケン)の死に様(ハチの巣状態)だろう。ラストの戦争シーン(何となく『戦艦ポチョムキン』のオデッサの虐殺の場面を連想させる。しかし最後に移民女性が銃をくわえて自殺する場面は余計だろう。設定としても非現実的すぎる)よりも、この壮絶な死に様の方が、よほど印象に残る。『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』もジョン・ローンが死ぬが、チミノは美しい若者の壮絶な死が好きなのだと思う。このあたりが三島由紀夫的というか、ゲイ的な美意識だ。ユペールも最後にハチの巣になって死ぬ。この二人の死に方は、『俺たちに明日はない』のボニーとクライドを連想させる。これはアメリカン・ニューシネマからの引用ととらえていいのか…(エラはボニーと同じように白い服を着ている)。

見どころ②ネイトの友人役のミッキー・ロークが舌をつかまれるシーン。結構長い場面で、ウォーケンのちょっとオネエっぽい笑顔が見れるのは嬉しいが、あの場面をわざわざ挿入したのはなぜだろう?ネイトとエイブリルの階級の差というか、住む世界の違いを強調したかったのか?そしてエラは、所詮自分はこちらの側だと、踏ん切りがついたということなのか?それなら「壁紙」の場面で充分だと思うのだが…。

ヴィスコンティ的な美的画面作りへの執着とアメリカン・ニューシネマ的味付けがうまく融合できなかった映画かもしれない。

あと、ウォーケンが悪役を演じ始めたのは『007 美しき獲物たち』からだと思っていたが、この映画で既に悪役をしていたというのは発見だった。いきなり銃殺したり、銃を顔につきつけて凄んだりといった演技は、その後の映画における悪役演技と同じ完成度の高さを既に見せている。

天国の門 [DVD]